序章

遥かなり積丹

       --SHAKOTAN,Far North Land--

  2_4 Photo_2

| コメント (0) | トラックバック (0)

Ⅰ.窓岩夕景

Photo_4

「窓岩夕景」 (1978年)

14歳の冬、母親とその実の父である祖父が相次いで心の病に取り憑かれた。父と私は母親の転地療養のため、小樽の街を離れる決意を固めた。誰にも打ち明けることのできない、夜逃げのような旅立ち。それはその後続く長い心の漂流の始まりだった。

 3月下旬、西日に誘われて私は写真機を手に岬に向かった。残雪を踏みしめ、ススキをかきわけて岬の突端に進む。遥か断崖の下から吹き上げる風に雲がちぎれて飛ぶ。木々が揺れる。慟哭にも似た海鳴りが魂を揺さぶる。積丹半島に沈む夕陽が海を赤銅色に染め上げる。

 いつか必ずここへ帰ってくる。どんなに遠く離れても私はこの風景の中へ戻ってくる。そう心の中でつぶやきながら、シャッターを切り続けた。やがて陽は沈み、残照とともに心を覆ったのは、絶望の暗闇だった。

| コメント (0) | トラックバック (0)

Ⅱ.輝跡

Photo_5

「輝跡」 (1996年)

 「窓岩夕景」から18年。私は故郷を離れ、妻と二人、東京に暮らす。父は精神病が性格の中に溶け込んで通常の生活ができなくなった母親との生活に疲れ、家を出て行った。東京に引き取った母親はすぐに倒れ、もう10年も精神病院に入院している。そして父はひとりさびしく定年退職を迎えようとしている。

 故郷へ帰る機会を失った私は、今度は父を引き取らなければならないだろう。望郷の念と失意の入り混じった感情を抱えながら、残されたわずかの時間を愛惜しむように写真機材を担いで足繁く北海道へ通う。      

 祝津の丘から日本海にレンズを向ける。ファインダーの中で、秋の柔らかな陽射しを受けて、二艇のヨットがすれ違う。突然、セイルを高々と上げた艇が、三枚の美しい帆を張った艇に向けて舵を切りはじめた。緩やかな弧を描く航跡。青い波間に出会う二艇の奇跡。いつの日か生まれてくるわが子の名には、この海の青さを込めたいと思う。

Photo_10

Photo_11

| コメント (0) | トラックバック (0)

Ⅲ.夏の漁火

Tele  

R_2

「夏の漁火」 (1996年)

 風に吹かれ、神威岬の突端をのぞむ丘の上で夕暮を待った。めざす夕陽は厚い雲の奥に隠れ、残照さえ見せなかった。やがて紺碧を増す波間にひとつ、またひとつと漁火が浮かび始めた。積丹岬沖から西の河原沖まで、丸く弧を描く水平線のそこかしこに数十の光彩が散りばめられてゆく。

 そうしていると、二人の小さな男の子を連れた夫婦が息を切らして丘を登ってきた。母親は抱いていた子どもを下ろすと、大きく肩で息をついて顔を上げた。途端、海原に広がる漁火に吸い寄せられるように見入った。

 「しーっ、静かに」。騒ぎまわる子どもをなだめ、再び彼女は沖合に目をやった。生活の疲れを滲ませた表情にみるみるうちに輝きが戻っていく。長い子育ての間、風景に目を奪われたことなどなかったに違いない。神が与えてくれたつかの間の休憩。遠い日の記憶の糸を手繰り寄せ、すべての景色が輝いて見えた若い季節を思い出しているのだろうか。

 美しきもの、汝の名は母。

Photo_6

Photo_8

1_2

| コメント (0) | トラックバック (0)

Ⅳ.舞

Photo_12

「舞」 (1996年)

 カーラジオは日本海で急速に発達した低気圧が積丹半島付近を通過中だと告げていた。つい2時間ほど前に通った当丸峠はすでに通行止めになったという。吹雪は激しさを増し、荒れ狂う波は恐ろしい咆哮を上げて岩に押し寄せ、砕けて飛び散る。そんな吹雪の中でも、鴎は岩の上を舞い続ける。近くに巣があるのだろう。巣を守り、家族を守るため、いつまでもいつまでも岩の上を舞い続ける。

 生まれると同時に親から養育を放棄された私は、生きていくための最小限の力を与えられなかった。生きていくために守らなければならない巣があることも教えられなかった。

 「あなたは哀しい瞳の子どもだった。あの家の中でいつも身の落ち着くところ、安らぎの時も場所も持たない、哀しくさびしい目の色をしていた」。

幼少時代を知る叔母が手紙をくれたのはつい先日のことだ。その手紙を手がかりに、私は自分を育てた「家」と、その家に受け継がれてきた不条理を探る作業に取り掛かる決意を固めた。呪われた血の狂気を、8か月後に生まれてくるわが子に世代連鎖させないために。

Photo_14

Photo_15

1_4

1_5

Photo_13

| コメント (0) | トラックバック (0)

Ⅴ.蛸岩夜情

2_5

「蛸岩夜情」 (2000年)

「お腹の中にいる時、お前は流産しかかってね」

 母は私を産みたくなかった

 その時の傷跡はいまも私を苦しめる

「泣き声ひとつ上げない未熟児で、保育器に入れられたのさ」

 鼻からチューブを差し込んでミルクを飲み

 殺されかけた命をつないだ

「火葬場の煙突から昇る煙を見るたびに、次はお前の番だと思ったよ」

 母は私が育たないことを望んだ

 育てる力がないから、死んでほしいと願った

「でも生まれて10日くらい経って初めて大きな声で泣いたのさ」

 死なない私を見て母は諦めた

 そして私を実家に置き去りにした

記憶の底に埋もれた母のことばを寄せ集め

幸福色に糊塗された家族の伝説を

子どもを育てられない家の負の歴史に塗り替えていく

Photo_17

Photo_18

5

Photo_16

| コメント (0) | トラックバック (0)

Ⅵ.半島の落日

2_6

「半島の落日」 (1999年)

初めて幼稚園で描いた絵に人の姿はなかった

描きたいものなどなかったから、

おととい海で釣ったヒトデを描いた

きれいなお星さまね、と先生が褒めてくれたので

黒いレーザー光線を飛び交わせた

ヒトデが円盤に変わる 宇宙大戦争

先生はにわかに険しい表情になり

こんどはお友だちの顔も描いてね、と言い残して

どこかへ行ってしまった

驚いた母親は、慌てて私を自分の住む街に引き取った

初めての両親との暮らし

退屈な保育園の昼寝

やむことのない偏頭痛

半月後、母親はもう一度子育てを諦め

私を祖父母の住む街へ送り帰した

そうして沈む夕陽を眺めるのが4歳の私の日課となった

2_7

Photo_19

Photo_20

| コメント (0) | トラックバック (0)

Ⅶ.豊饒の祈り

1_7

              

               2_8

「豊饒の祈り」 (1998年)

天狗の火渡りを初めて見たのは14歳の夏だった。燃え上がる炎が夜空を焦がし、天狗が、御輿が、次々とその中を渡っていく。

 すべてが順調に進んでいるように見えた私の生活は、その年から破滅の坂道を転落しはじめた。母親とその父親が相次いで精神分裂病をきたし、その症状があまりに似ていることから、私は血が繋がっていることに対する言い知れぬ恐怖に震えた。それから21年。呪われた「血」の意味はいま、ようやく明らかになりつつある。

 私は生まれるとすぐに、両親のもとから引き離され母親の実家で育てられることになった。アルコホリックの家庭で育ち、子どもを育てる能力に欠けた母親は、自分に母性が欠如していることを悟られぬよう、不遜な態度で私を自分の母親に押し付け、さっさと職場のある街へ帰ってしまった。婿養子の父親にはそれを拒否する力はなかった。

 祖母と、叔母と呼ぶにはあまりに若い3人の女性に囲まれ、他人からは大切に育てられたように見えたかもしれない。だが、叔母たちが次々と嫁ぎ、家を出て行った後に残されたのは、絶えずアルコールに溺れ正気を失っている祖父と、そのアルコールに怯え、疲れ果て、養育はおろか思考能力さえ失った祖母という、機能不全の「家庭」だった。

 すでに母性を失った祖母を「かあさん」と慕い、幼い命をつないだ日々。親がいない寂しさを口にすることも、感じることさえ許されず、感情の回路を閉ざして退屈な日々をやり過ごすだけの毎日。孤独と緊張。期待と絶望。裏切りと再生。週末に客のような顔をして現れる両親を待つ毎日が、私の生活の原風景となった。

この世に生を受けた瞬間から、安心して抱かれる母親の胸を知らない誕生。幾世代も続いてきたその連鎖。それは仏像をつくっておきながら、魂を入れ忘れたようなものだったのかもしれない。

 落ち着く場所を知らない「騒々しい魂」が積丹海岸を彷徨っている。その魂を呼び戻し、体の中に鎮まらせようとする作業はきょうも賽の河原に小石を積むようにつづけられている。

 燃え盛る炎の中に天狗が舞う。祈りを込めてシャッターを切る。

Photo_22

Photo_21

| コメント (0) | トラックバック (0)

Ⅷ.神威落日

Photo_23 

「神威落日」  (1998年)

11 回目の結婚記念日の夕暮を私はひとり、積丹で迎える。今ごろ東京にいる妻は、1歳の誕生日を迎えたばかりの息子の夕食の準備に取りかかっていることだろう。  

自分の心に棲む「騒々しい魂」の意味を探りあて、生きてきた道程を紡ぎ直す作業を続けてようやく産むことができた息子に、私は航(わたる)という名を与えた。

 

家庭の安らぎ、家族の満ち足りた時間を知らずに育った子どもが、やがておとなになり、今度は親として機能不全の家族を再生産する。希薄で殺伐とした人間関係の積み重ね。何世代も何世代も続くその繰り返し。航という名には、きょうまで私に血を伝えてきた人たちが、誰一人渡ることのできなかった広大な愛情の砂漠を瞬く間に渡り切り、あらゆる血の呪縛から解放されて、みずからの意思でその彼方に広がる大海原を航海していってほしいという願いを込めた。

 巨大な落日が天空を横切り、神威岬の先端に捧げられる。光の塊が岬から、神威岩に渡される。20年前の春、絶望のオタモイ海岸で見送った夕陽を、きょう私は遥か西の積丹の海でしっかりと拾い上げ、抱きしめる。20年という時間の長さと、ここにたどり着くまでに費やしてきた膨大なエネルギーに思いをめぐらし、目眩にも似た徒労を感じながらも、なお心地よい満足感が身体を包み込む。

航、私は君にいまたったひとつのものを贈ることができる。それは目で見ることはできないものかもしれない。言葉に表すこともできないものかもしれない。君はそれを受け取ったことに気づかないかもしれない。だがそれは私と血の繋がるすべての人々が受け継いできた漠然とした不安感に囚われた感情とは全く異なる、安定と充足、安らぎに満ちたものだ。それを魂の奥深くに仕舞いこみ、君は悠然と大航海に向けた旅立ちの準備をしてほしい。

                                    Photo_24 

L_2

| コメント (0) | トラックバック (0)

Ⅸ.あめ色のうみ

2_9

                     2_10  

「あめ色のうみ」 (1999年)

真夏の嵐は過ぎ去り

荒れ狂った海も静けさを取り戻す

2歳の誕生日を迎えた航を抱いて

日司台から神威岬に対峙する

霧の塊がつぎつぎと湾を横切り

あめ色の水平線が広がる

捨て去る記憶と

紡ぎなおす魂の物語と

灼光のベールの彼方に進路は見えた

にぎやかに 愉快に艇を進めよう

全身に満帆の風を受け

波光きらめく遥か海峡をめざして

Photo_25

                                   2_11

Photo_26

| コメント (0) | トラックバック (0)

Ⅹ.永遠の落日

12_2

「永遠の落日」 (2000年)

 彼女が積丹を訪ねてきたのはまだ雪が残る3月下旬のことだった。吹雪から晴天に、そしてまた鰊曇りへとめまぐるしく天候が変化する春の一日。十数年ぶりに会った彼女は、若いころと少しも変わらない凛とした気品を漂わせていた。

「あなたの悲しみをいままで受け止めてあげることができなかった」。

そう呟いた彼女がやがて静かに語り始めたのは、彼女自身が育った機能不全の家族の歴史という悲劇のストーリーだった。

「彼と話していると、まわりの人はみんな、とても幸せそうって言うの」。

あの夏、あなたは流行のカフェ・バーで瞳を輝かせながらそう話して、私の視界から去っていった。あの日から私の中にあなたは、永遠に手の届かない夢のかたちとして飾られてきた。

平凡な幸福に浸っているものとばかり信じていたそのあなたがいま、生活の中から浮かび上がった矛盾に心を痛め、想像すらしなかった「機能不全の家族」という文脈で自分の人生を語り始める。春の嵐が吹き荒れる。

「もっと自分のことを好きになってね」。

彼女がそう言い残して帰っていった翌々日、私は冷たい風が吹きつける氷点下の婦美の丘に立った。神威岬を照らす夕陽は厚い雲間に隠れ、姿を見せない。きょうで5日。明日の朝には空路東京へ帰らなければならない。日没が刻一刻と近づく。焦りが次第に絶望へと変わっていく。

日没の時刻まであと数分。強い北風に雲が吹き飛ばされて、水平線上にわずかに空がのぞき始めた。その隙間を縫って焼け付くばかりの赤銅色の太陽が姿を現す。じりじりと音を立てながら、岬の彼方へ沈んでゆく。間髪を入れずにレリーズを切る。凍えたシャッター音が白い雪原の上に響き渡る。

永遠の一瞬。幻の落日はついにその姿を現した。

Photo_28

           Photo_29

Photo_30

           Photo_31

| コメント (0) | トラックバック (0)

XI.夏の積丹海岸

Photo_32

「夏の積丹海岸」 (2000年)

2000年夏

待ち望んだふたりめの子どもが生まれる

妻に似た細く長い指と

私に似た黒い髪をまとった

たんぽぽのような女の子

息子の誕生日と同じ8月

その日、正午に上がった産声は

呪われた家の伝説に楔を打ち込み

慟哭の轍を突き崩した

忌々しい狂気の連鎖は過去のものとなり

きょうから私の家族の本当の歴史が始まる

鏡のような水面に屏風岩が影を落とす

鴎が鳴き

エゾカンゾウの花が揺れる

夏の集落 積丹海岸に

生命の営みが乱舞する

2000年夏

娘が生まれる

その記念する年に生まれた子に

私たちは夏生(なつき)の名を贈る

             2_12

2_13

Photo_33

Photo_34

| コメント (0) | トラックバック (0)

XII.神威残照

 夕暮の通勤電車を降り

 人波に紛れ改札を抜ける

 きょう一日が静かに終り

 また明日の朝には一日が始まる

 何も変わらないきょうを受け入れ、

 何も変わらなかったきょうを明日につないでいく

 ただそれだけのことを

 できない日々があった

 暴動はまだか 革命は起きないのか

 世界はいつまで続くのかと

 絶望の轍の中で歳を数え、もがき、苦しみ

 混乱の中に生き急いだ彼の人びと

 遠い夏の日

 母と歩いた断崖の上に続く小道

 まどろみから覚めた午後

 母の机に置かれていた「失われた時を求めて」

 鈍い痛みを感じながら

 子どもたちが待つ家へ帰りを急ぐ

 初めて手に入れた平凡な魂が

 時間の流沙をつかみはじめる

 晩秋の落日がきらりと輝き

 神威岩の陰に身を隠す

 何気なく過ぎてゆく時間が

 きょう一日の幸福を静かに伝え

 子どもたちの寝息の音が

 明日も世界が続くことを約束する

Photo_35

「神威残照」 (2000年)

| コメント (0) | トラックバック (0)

XIII.終章

生まれたばかりの夏生へ

3歳になった航へ

そしていつの日か、この本を手にする二人の子どもたちへ

夏生。君は8月25日午後0時ちょうど、私たちが見守る中で元気な産声を上げて生まれてきた。生まれる1、2時間前、君の心拍数は急激に上昇し、私たちをはらはらさせた。でも私が横になったお母さんの腰をさすって声を掛け続けてやると、やがて泣いていた子どもが静かに寝つくように落ち着き、それからわずか数十分で私たちの前に姿を現した。きっと人の話によく耳を傾ける人間に育つことだろう。看護婦さんから、女の子ですよ、と声をかけられたお母さんの口から、わあっ、という喜びの声が漏れたのを私は忘れない。その瞬間、君は、女性としてお母さん以上の幸福をつかむパスポートを手に入れたのだ。

そして航。君が生まれてちょうど3年の月日がたった。いまや真っ黒に日焼けしてプールにプカプカ浮かんでいる君も3年前は夏生と同じ赤ん坊だった。小さな物音にも神経質に反応して泣いていたものだが、わずかの歳月ですっかり男の子らしくなった。3キロ弱の夏生を抱いた手で、14キロの航を抱き上げてみると、あたり前のことだが、そのあまりの違いに驚く。3年という月日の重さがそこにある。素晴らしいのは、いままで朝から晩まで産休中のお母さんにくっついて離れなかったというのに、お母さんが夏生を産むために入院してからというもの、ただの一度も泣くこともなく、私と二人で頑張っていることだ。たぶん辛いことだろう。寂しいことだろう。しかしそれを表情に表すことさえなく、お父さんと普通に生活している。君はもう、兄貴としての風格を身につけたようだ。

3年の月日が長かったか、短かったかというと、これはひと言では言い表せないほど難しい。ただひとつだけ言えることは、その間、私もお母さんもまっすぐに航を見つめ、そして次に生まれてくるふたりめの子ども、つまり夏生をより幸せにするための条件を必死に模索しつづけてきたということだ。私たちを取り巻く環境は大きく変化した。最も大きな変化は、3年前に生まれたばかりの航にあてて書いた手紙で告白したように、私自身が機能不全家族の中で育てられ、心に渇望を抱かされたまま、歪められた形のままおとなになってしまったことに気づき、激しい闘争――文字通り、生死を賭けた自己との大闘争--の末、依存症から回復してきたことだ。もちろんそれを支えてきたのは、お母さんの穏やかで暖かな家族への愛情だ。そのことをいま一度、ここに記しておきたいと思う。

1995年夏、私は突如精神のバランスを崩し、熱波が襲う東京で地獄の入口をさまよった。

その年の1月、兵庫県を襲った大地震は一瞬のうちに6400名の命を奪い、先行きの見えない不透明な世紀末の日本社会に暗い影を落とした。3月には宗教法人に名を借りた殺人集団が地下鉄車内にサリンを撒き散らし、無差別殺人という犯罪がもはや遠い他の国の出来事ではないことを知らせた。あの日の朝、いつもの電車に乗っていたなら、お母さんも事件の巻き添えになっていた可能性もあった。東京都庁知事室で郵便物が爆発したときは、都庁内の記者クラブで仕事をしており、火薬の匂いが立ち込める知事室へ写真機を抱えて走った。数百キロの彼方で起きた断層の振動と、ごく身の回りで発生したカルト集団のテロは、ひとつとなって、コンクリートジャングルできしりきしりと魂を削って生活している私の奥深くに突き刺さった。

 6月から7月にかけて、私は言いようのない恐怖感に捉えられ、ひとり身悶えた。世界との距離感覚が不明確になり、四角く区切られた団地の箱の中で、朽ちていく自分の姿が見えた。思考回路が動きを止め、仕事を休んで、朝からアルコールに浸っている日が続いた。こんなことではいけない、ただちに復帰しなければと思うほど神経は病み、心は暗く閉ざされた。いっそのことこのまま消えてしまえば楽になるのかもしれないとさえ考えた。そんなある日、同僚の一人が会社に私の状態を説明する際に、

「彼は母親も精神分裂病なので、遺伝的に精神病の資質があるのかもしれない」

と軽口をたたいたと言う話が伝わってきた。怒りを感じた次の瞬間、私は深い溜息とともに肩を落とした。同僚の言ったことは半ば正しかった。私の母親は、私が14歳の年に精神分裂病の診断を受け、いまも精神病棟に入院している。それだけではない。かつて母親とその父親である祖父がほぼ同時期に同じような症状で入院し、14歳だった私は、血が繋がっていることからくる発狂への恐怖に捉えられ、身の凍りつくような悪寒に震えて、立ちすくんだのだ。さらにその祖父と一卵性母子だった曾祖母も精神病から死に至ったと聞いている。

 医学的に考えれば精神病が遺伝するなどと言うことはありえない。しかし、祖父とその長女だった私の母親の症状はあまりにも似すぎていた。そもそも発病のメカニズムが、性格に内在しているかのような--まさにあたかも遺伝しているかのような--特徴を示していることに、私は当時から気づいていた。祖父はどうして分裂病に陥り、わずか数ヶ月で死ななければならなかったのか。その祖父と極めてよく似た気質を持った母親は、なぜ同じように分裂病に陥り、そこから這い上がることができなかったのか。そしていま私が直面している事態は何なのか。私もこのまま「向こう側の世界」へ行ってしまうのだろうか。母親が分裂病になったのは38歳のときだった。私もその歳に向けて秒読みをしなければならない恐怖から逃れることはできないのだろうか――。忘れかけていた記憶が甦ると同時にさまざまな思いが去来し、皮肉にもそれがきっかけで、私はとりあえず正気の世界に戻らざるを得なかった。

 そしてその数ヵ月後、お母さんが懐妊した。この時は残念ながら胎内で育たなかったのだが、そのとき私の脳裏に去来したのは、おめでとうと言った言葉とは裏腹に、あるはずのないことが起きた、という違和感だった。

 結婚してから8年間、私はどうしても子どもをつくることができなかった。次第に歳をとり、そろそろつくらなければ、という思いと、そうは考えてもつくることを避けようとする相反する二つの感情が同居していた。単に子どもを育てる能力が欠如しているというだけでなく、かねてから私は、私に繋がる遺伝子を私の代限りで根絶やしにするべきだという不思議な感覚に囚われていた。何かが私の生きる過程に影響を及ぼしていることが考えられた。何かが私の生命の奥深いところから微細な情報を私に伝えようとしていた。これを契機に私は自分に負わされた重い命題を直視し、取り組む決心をした。

子どもを産み、育てていくのは人間だけでなく、すべての生物にとってごく自然な営みであるはずだ。ところが私はその手前で立ち止まり、ためらっている。どうしてなのだろうか? 思えば私は幼少の時分から、周囲に馴染めない違和感を持っていた。そしていつもそのことを不思議に思っていた。 ひとりっ子のせいだろうか? 女系家族の中で育てられたためだろうか? 7才まで親元を離され、祖父母に育てられたためだろうか? 教師の両親のもしで厳しい受験教育にさらされてきたためだろうか? あるいは人間として基本的なものが何か足りないのだろうか? 子どものころから感じていた自分の出生と幼児期に関わるさまざまな理由が浮かんでは消えていった。どれも的を射ているようであり、そうでないようでもあり、明確な回答にはならなかった。

 ちょうどそのころ、私の意識にもうひとつの問題が引っかかっていた。それは小学校、中学校の同級生だったS君が精神病を患って社会復帰できなくなっているという噂だった。

彼と私はあまりにも生活環境が似ていた。二人とも両親が揃って教師だった。婆ちゃん子だった。ひとりっ子だった。太っていた。児童会や生徒会に首を突っ込むのが好きだった。周囲からは過大な期待と羨望を一身に受け、いつも特別な扱いを受けてきた。成績はいつも二人で一番を競っていた。

彼は、私が母親の病気から断念せざるを得なかった小樽市内の高校を卒業した後、道外の国立大学に進んだが、北海道へ帰りたいという理由で――それが表面上の理由で、実際は一人暮らしが寂しくて耐えられなかったからだということは私にはわかっていたが――地元の国立大学へ再入学した。そして4年後、無事卒業し、官庁へ就職したところまでは風の便りに聞いていた。誰もがうらやむコースだったといっても過言ではないだろう。当時私は大学を留年して波乱万丈の生活を続けており、僻みから連絡を取っていなかったのだが。

そのS君が就職してわずか数年で精神を病み、退職してしまったという。他から聞いた話では、地方の山間部の事務所に配属されて、山歩きの仕事を続けているうちに、おかしくなってしまったらしい。「アマちゃんだったから、世間の風に打たれて耐えられなくなったのだろう」と、かつての妬みをお返しするようにこのときとばかりに嘲笑する声があちらこちらから聞こえた。だが本当にそうだろうか? アマちゃんだったのは事実だったとしても、30年近く健康に暮らしてきたひとりの人間が、はたしてそれだけのことでおかしくなるものだろうか。明白な外的要因もなく、内部から崩壊していったようなそのメカニズムに、私は自分の祖父や母親と同じようなものを感じた。   

それでは相似形だった私はなぜ崩壊しないのだろうか? それとも私もやがて彼と同様に崩壊してしまうのだろうか? どこか解けそうで解けない難問が私の前に立ちはだかった。このパズルが解けない限り、私には子どもをつくることができず、やがては鉄格子の入った病棟で息を引き取った祖父と同じ道をたどるという確信めいた感情が生まれ、その感情は日に日に巨大化して、相変わらず仕事とアルコールに浸りきっている私を包み込んだ。

そんなある日、私は新聞の中の本の書評欄の中に、

「アルコール依存症の家庭で育った子どもは生きる力が弱い」

という一節を見つけた。

何かが私の心の琴線に触れた。心臓が激しく鼓動を打つのを感じた。アルコール依存症だって? だれが? 父も母も少しはアルコールを口にしたが、それが家庭の問題となるようなことはなかった。8歳前まで私を育ててくれた祖父はかなり飲んでいたのは事実だ。酔っ払っては祖母と喧嘩したり、どこででも寝込んだり、暴れたりしていたけれど、あれは少々飲みすぎただけで、決してアルコール依存症だったのではないはずだ。第一、かあさん(私は育ての親である祖母を「かあさん」と呼んでいた)だって「じいさんが悪いのではない。悪いのは酒だ」と言っていたのではないか。それに生きる力が弱いとは誰のことだ? 私は子どものころからバイタリティーがあると言われてきたのではなかったのか?      

 解決がつかぬまま悶々と暮らしているうちに、とうとう妻が懐胎した。今度こそ生み、育てなければならぬ。そう決心を固めた私に、妻が当時話題になっていた一冊の本を紹介してくれた。それがAdult Children of Alcoholics(AC)――機能不全の家族の中で育った子どもたち――という概念との出会いだった。長男・航が生まれる半年ほど前の、1997年1月のことだ。

  何冊かの関連書籍を手にするうちに、私は自分の中でひとつの仮説がどんどん膨らんでいくのを感じた。だがそれでも私は自分がACであることを認めようとしなかった。否認の論理が働いた。しかしそうしている間にも妻の出産時期は刻一刻と近づき、私は自分が抱える矛盾の大きさに縛られ、身動きできなくなってしまった。そしてついに、私はみずから震える手で受話器を取り、本の巻末に記してあった原宿カウンセリングセンターの電話番号にダイヤルした。桜の花が咲き始めた4月10日のことだった。

 それから3年以上の月日が過ぎた。その間、私は自分が30数年間、ただの一度も後悔などしたことがないと公言して憚らなかった自分の足跡を振り返り、再構築する作業を続けた。それはちょうど完成したパズルをそっくりそのまま裏返し、バラバラに崩して、別の絵に組み替えるような行為だった。あるいは風景写真を撮るレンズに偏光フィルターをかけ、乱反射する水面の底から、海の青さをすくい取るようなものだった。

そしてその結果に従っていくつもの決断をした。東京に家を建て、暮らしていくことを決めた。これにより故郷・北海道への退路を絶った。親族からの非難を覚悟の上で、精神病棟で暮らす母親と絶縁した。少しでもかかわりを持つことで、私の中の「騒々しい魂」が感応して騒ぎ始め、その忌々しい血が生まれてくる子どもに受け継がれるのを避けるための唯一無二の選択だった。北海道でひとり退職を迎えた父親を東京に呼び寄せた。人生を文字通り共に闘ってきた旧友・アルコール氏と永遠の別離をした。その結果、私の中に劇的な変化が次々と生じた。詳細については、別の機会にゆずるが、その変化はいまだに私の知人たちとそして私自身を驚かせ続けている。

回復の過程にあった昨年の秋、私たちはもうひとつのさらなる幸せの実現を求めて、夏生、君を生むという新たな目標を定めた。君の誕生日は航と3年違いのほぼ同じ日だが、これは決して偶然ではない。君が真夏の日に生まれたのは、私とお母さんが積み重ねてきた14年間の歴史の象徴なのだ。私の人間性の復興と、お母さんの母性と体力の充実、それに航の成長という三つの条件を重ね合わせて、針の穴に糸を通すような絶妙のタイミングで、君は必然性を持って生まれた。

君が誕生した瞬間、私は、私と私に血を受け継いだすべての人たちが捉えられてきた血の連鎖、もがき苦しんでも這い上がることができなかった轍から、私たちが永遠に解放されたことを知った。幾世代にもわたって伝えられてきた、親に養育を放棄されたまま、混乱した家庭で家族の愛情を知らないまま育つ薄幸の鎖を断ち切ることができたのを悟った。

物心ついたころから私を苦しめ、ここ10数年は常に私の感情の裏側にも張りついていた圧迫、焦燥、不安、恐怖といった負の感情は完全に消滅した。長い間、当然のように自分を苦しめてきたもの――私の生きにくさの原因となり、正常な人間関係をつくれない遠因となってきたものの本質――が消えたことで、私はいままで得ることができなかったごく普通にきょう一日を暮らし、ごく普通に明日の朝を迎える「平凡な魂」を手に入れることができた。

――そうした変化が、わずか3年の間に私の上に次々と起きた。変化したのは家族関係だけではない。自他ともに認めるワーカーホリックとして没頭していた記者の仕事に対しても、不自然にしがみつく関係がなくなり、客観的に関わる姿勢が生まれた。アルコール氏と決別したことで人間関係も変化し、他人への過度の期待と落胆の繰り返し、つまり他者をコントロールしようとする依存関係がなくなった。私に血を受け継いだ人たちが共通して持っていた日常生活の中における、自分自身の意思で主体的に行動する能力の欠如、退屈な時間を耐えて過ごす憂鬱、鼻歌まじりの手慰みへの没頭、つまらない性癖への執着といった遺伝「的」なアディクションがほぼ完全に消滅してしまった。

そして今、私は君たち二人の子どもの親としての力を少しずつ、着実に蓄えつつある。その過程では、いくつもの厳しい決断を行った。何度も辛い涙を流した。だが何度も書くが、これらはすべて、私に血の繋がるすべての人々が苦しんできた「呪われた血」の連鎖に終止符を打ち、もがき苦しみながらもついに這い上がることができなかった狂気への軌道から、私とその家族を永遠に解放するための選択だった。いま私は、私と共依存関係に陥ることなく、いつも静かに寄り添ってくれていた妻に感謝をしながら、自分の存在を確認する作業を続けている。

――ほぼ10年ぶりに北海道の風景にレンズを向けたのは、冒頭に紹介した1995年夏のことだった。その夏、一か月余の悲惨な生活から這い上がりかけた私は、二週間の休暇を取り、妻と北海道へ旅行に出かけた。そのときたまたま使い慣れたニコンを肩から下げて行き、数本のフィルムで網走湖やサロマ湖、美瑛・富良野の丘、積丹の海を撮影した。それが契機となって各地に風景写真を撮りに出かけるうちに、本当に撮りたいのは北海道の風景、それも積丹半島の風景であることがはっきりと認識されてきた。積丹ブルーと呼ばれる独特のライトブルーの海。自分の心にある青く澄んだ遠い場所。

祖父母に預けられた幼少時代、祖父母を親として心から慕いながらもその一方で恋焦がれた街・小樽。父と母が暮らし、鴎が迎えにくる街・小樽。母親の精神病から、夜逃げのように去らなければならなかった私の中の未完の故郷・小樽。積丹は私が暮らした小樽西部の海岸から続くニセコ・積丹・小樽海岸国定公園の最奥部であり、私と私に血を伝えた人々が、不自然に「家族」を意識しながら群集った、私たちの生活を最も濃く凝縮した場所でもある。

積丹の海と空と大地にレンズを向け、30年も昔に失われた時間、消えた空間に戻って自分の生成過程を再構築した時、私は初めて、生まれてから今日まですべての感情を支配していた闇を追い払い、自分自身が持っていた本来の生命力を取り戻す試みに成功した。この作品集はそうした意味で個人的な、極めて私的な人間復興の闘いの軌跡である。カー・ステレオから流れるフォルクローロの旋律を耳に、積丹原野を疾走した日々を、私は永遠に忘れないだろう。

この作品集を作成するにあたっては、言い換えれば、1995年の夏に体調を崩したのを契機に自分自身のかたちに向き合ってから今日まで、私は多くの古い友人・知人と再会を果たしてきた。その邂逅の一つひとつが、自分が歩いてきた道程を確認する作業となった。

特に、本書を小樽時代の恩師・奥村恵美子先生に捧げる。20数年間に渡ってお世話になってきた重みはとてもひと言で言い表せるものではない。先生にお世話になってきた時間の流れは、そのまま「窓岩夕景」を撮った1978年から今日までの私の時間と重なり、そのまま自分の歴史を捉えなおす作業の軸になった。

本書を北海道で暮らす3人の叔母に捧げる。叔母たちは私の幼少時代を知る数少ない存在であり、とりわけ札幌の叔母からいただいた手紙は、自分では確認のしようがないため想像の域を出なかった私の幼少時代の家庭環境、家族関係を解明するうえで重要な手がかりを与えてくれた。

本書を原宿カウンセリングセンターの信田さよ子所長に捧げる。


 
夏生

君たちが生まれた時、私は幸いにも出産の場に立ち会うことができた。お母さんから繋がっていた臍の緒が切られ、君たちがひとつの命となった瞬間、私は君たちのからだから無数の黄金の糸が宙に向かって伸びていくのを見た。この糸を一本一本、絡まぬように、切れぬように、丹念に、正確にこの世界へ結びつけていくのが私たちの役割なのだと思う。

これから私たち家族4人は自分たちが定めた進路に舵を取り、自らの意思で複雑な時代の大海原に向けて航海していく。だが、それは座標軸さえ見失わなければ、決して難しい旅ではないはずだ。高々と帆を掲げ、波光きらめく岬を大きくまわりこみ、力を合わせて艇を進めよう。月のない夜も、北極星の輝きに身をまかせて。

妻と可愛い二人の子どもたち、長男・航と長女・夏生に贈る。

| コメント (0) | トラックバック (0)

XIV.終

0925a2_0013

0925a2_0109

0927a4_0293

0927b4_2311

0928b5_0416

0929b6_2720

人は稀にしかないことが起きた時、

それを偶然と呼ぶ

偶然が重なった時、

奇跡と呼ぶ

奇跡が自分の人生を変える時、

人はそれを運命と呼び、

人知の及ばない崇高な神の存在を思い描く

運命を受け入れた時、

偶然は必然に転じる

0926b3_2054

| コメント (1) | トラックバック (0)

«XIII.終章